まこっちゃんがクラウン・デビューして初めてのクラウン・ショーが起こした奇跡とは?

 まこっちゃんたちデビューしたてのクラウンでも起こし得た奇跡、それは紀元前からの歴史の中で脈々と受け継がれてきたクラウンそのものの持つ不思議な力によるものなのかもしれません。

1:デビュー編

 2018年、映画『グレイテスト・ショーマン(“The Greatest Showman”20世紀フォックス映画/2017年アメリカ)』が日本でも大ヒットしました。主人公はヒュー・ジャックマン演じるP.T.バーナム(Phineas Taylor Barnum)という興行師。バーナムが見世物小屋から興行師として名声を馳せるようになり、紆余曲折を経てサーカスを興す物語です。この「地上最大のショー」と謳ったサーカスこそがのちのリングリング・サーカスです。日本では略されてリングリング・サーカス、またはリングリング・ブラザーズと呼ばれていますが、正式名称はリングリングブラザーズ・アンド・バーナム&ベイリー・サーカス(Ringling bros. and Barnum & Bailey Circus)です。映画の最後に登場したバーナムのサーカスがベイリー・サーカスと合併して当時最大規模を誇るバーナム&ベイリー・サーカスになり、さらに後年、リングリング兄弟の大サーカスと合併してゆく流れの中で、名称に歴代オーナーの名前が付け足されるのが慣習になっていたのですが、まるで寿限無のように長くなってしまうので、その後のアーヴィン・フェルドとケネス・フェルド父子がオーナーになった時にはもう名前を付け足しませんでした。

 そんな地上最大のショーと言われたリングリングブラザーズ・アンド・バーナム&ベイリー・サーカスですが、残念ながら2017年5月21日、ニューヨークのナッソー・ベテランズ・メモリアル・コロシアムで行われた公演を最後に解散してしまいました。

 映画『グレイテスト・ショーマン』では創設者P.T.バーナムのこんな言葉がエンドロールに掲げられています。

「真に崇高な芸術とは、人々を幸せにするものだ」

 さて、解散するまで150年の歴史を持つリングリングブラザーズ・アンド・バーナム&ベイリー・サーカス(以下:リングリングサーカス)ですが、1968年米フロリダ州ベニスに、クラウンという古代からの伝統芸術をサーカスで永続させることに特化した養成機関であるクラウンカレッジを創立させました。創立20周年にあたる1988年までに1000人を超える卒業生を送り出し、卒業生たちはリングリング・サーカスを始め、ブロードウェイやラスベガスなどでクラウンにとどまらない活躍をくり広げてゆきました。

 そして創立20周年ではあのディック・ヴァン・ダイック氏が名誉学長に就任するなど、とても華々しい記念的なことが数ありましたが、そのうちのひとつが、クラウンカレッジの日本校の開設だったのです。

 時は1989年、株式会社ナチュラルグループ本社と三菱商事株式会社、TSP太陽株式会社との合弁会社である、株式会社クラウンカレッジ・ジャパンが設立されました。代表取締役社長は下郡山祥二、取締役員には鈴木文雄氏、矢追純一氏の名前もありました。

 1989年ということは平成元年、つまり昭和天皇が崩御された年ということですが、時代はバブル景気最盛期のこと、日本全国に第三セクター方式のテーマパークが乱立し、市政百周年を迎えた各都市では様々な博覧会が華々しく開催されていた、そんな時代でした。リングリングサーカスの本拠地でもある米フロリダのクラウンカレッジも1968年からちょうど創立20周年を迎えていた節目の時でもあり、リングリングサーカスと株式会社クラウンカレッジ・ジャパンが提携して、フロリダにあるクラウンカレッジの姉妹校という位置付けで東京の南大井にクラウン養成学校クラウンカレッジ・ジャパンは創立されました。講師陣はリングリング・サーカスから派遣されてきた現役パフォーマーたちで、授業は英語で行われました。

 まこっちゃんは91年にクラウンカレッジ・ジャパンの入学オーディションを受けたのですが、実はクラウンになりたかったわけではありませんでした。リングリングサーカスでのクラウン養成プログラムをそのまま導入し、アメリカから現役クラウンが講師として来日する、ということにはたいへん興味を抱きましたが、学費もかなり高額だったこともあり入学するつもりは全くなかったのでした。ただ、リングリングサーカスからやってくるクラウンの講師陣と入学オーディションがどのように行われるかだけでも体験してみたいという、至極軽い気持ちでオーディションを受けたのです。結果、幸か不幸か合格してしまいました。そうなると、もし本気で入学したいと思った時にもう一度オーディションを受けても合格するとは限らないと思い、まこっちゃんは金策に奔走してなんとか学費を振り込み、晴れて(?)クラウンカレッジ・ジャパン3期生となったのです。この時の決断は後々とても重要な意味を持つことになります。実際、一年後にバブル景気は崩壊し、クラウンカレッジ・ジャパンは4期生の募集は行わず、またそれ以後の募集も行いませんでした。つまり3期生がクラウンカレッジ・ジャパン最後の卒業生なのです。オーディションに合格しても、もしあの時に入学を決心していなければ、まこっちゃんは永遠にクラウンカレッジ・ジャパンでクラウンを学ぶ機会はなかった——そして、クラウンまこっちゃんも存在しなかったかもしれません。ここからクラウンまこっちゃんの、クラウンとしての人生が始まったのです。

 1991年8月18日、クラウンカレッジ・ジャパン第3期卒業公演からわずか2週間後、クラウンカレッジ・ジャパンを卒業したばかりの3期生のうちのまこっちゃんをリーダーとした5人のメンバーがデビューして初のステージに立ちました。同期生の中で最速デビューを飾った5人、写真の左からJINさん、GENちゃん、まこっちゃん、ましゅ、ウメちゃんがいよいよ踏んだ初舞台。それは横浜市内の療育施設の夏祭りのアトラクションでした。

 2日前から現場で仕込みという、今では考えられない慎重な準備をして本番に臨みました。 通常はクラウンカレッジ・ジャパンのスタッフがアテンドで現場に来るのですが、じつはこのデビューのショーはクラウンカレッジを介さずまこっちゃんが自分で持ち込んだ案件だったため、スタッフの協力が得られず、まこっちゃん自身のプロデュースにて構成・演出・ダンスの振付け、音源製作など全部まこっちゃんが自分でやって、2日前にましゅの車でプロップを運び、現場でリハーサルをしたのでした。

 そして本番当日を迎え、新人5人が全力で臨んだデビューのショーはどうにかこうにか大盛況で終えることができたのでした。

 そしてまさにこのショーを行っている時、客席ではとある奇跡が起こりました。

 その奇跡とは、ずっと歩けなかった障害のあるお子さんがクラウンのショーを見て車椅子から立ち上がって踊り出したのです。これには付き添いのおばあちゃんや施設の職員さんたちも驚いて、そして泣いてしまったそうです。

 ところが、まこっちゃんを含めこの日デビューの5人はとにかく初クラウン・ショーに必死で余裕がないのでそんなことはまったく感知せず、実はこの話も関係者から夏祭り終了後に聞いたのでした。詳細はよくわかりませんが、障害があるといってもそのお子さんは足が悪かったというわけでもなく、半年ほど前から急に歩けなくなり原因がわからなかったということでした。

 残念ながら初ステージをただただ必死でこなした5人にはまったく何の実感もなかったのですが……不思議なことがあるものです。

 デビュー当時のまこっちゃんの衣装はエキゾチック・ジャパン的な珍しい衣装で、アメリカから来日していたクラウンカレッジの先生たちから「Kabuki clown」だの「Ninja clown」だの言われてました。ビジュアル的に今とは大違いですね。

 ということで、まこっちゃんのショーはデビューから、笑いどころかクラウンらしからぬ感動を(?)巻き起こしてすごいことになっていたのでした。

 しかし、デビューしてからわずか一年後、まこっちゃんは衣裳やキャラクター面で大きなイメージチェンジをすることになります。いったい何があったのでしょうか?

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One thought on “1:デビュー編

  1.  まこっちゃんたちデビューしたてのクラウンでも起こし得た奇跡、それは紀元前からの歴史の中で脈々と受け継がれてきたクラウンそのものの持つ不思議な力によるものなのかもしれません。そんなクラウンのショーを、あなたのために出張公演いたしますので、ぜひご依頼ください。
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