デビューしてからわずか一年後にイメージチェンジ。まこっちゃんにいったい何があったのでしょうか?

2:第一転換期編

 これは1991年10月21~23日、品川区のきゅりあん大ホールにて開催されたクラウンカレッジ・ジャパン主催による『第二回東京国際クラウンフェスティバル』の写真です。まこっちゃんは玉乗りとかしてるんですが、エキゾチックジャパン的な衣裳が目立ってていい感じですね。

 アメリカのリングリングサーカス・クラウンカレッジの日本校という位置付けで開校当時こそマスコミを騒がせたクラウンカレッジ・ジャパンも話題に上ることがめっきりなくなった頃に日本経済バブルが崩壊しました。日本全国で開かれていた博覧会やテーマパークの新規オープンも峠を越え、やがて来る不況の波を見越して、株式会社クラウンカレッジ・ジャパン(以下、株CCJ)は、所属クラウンのイベント派遣だけでは続かないと考え、シアター・コンテンツを作って売り込もうとした第1弾が『第2回東京国際クラウンフェスティバル』で上演された『神々の道化』という作品でした。共同通信社の松田さんという喋ると入れ歯がカタカタする人物を新たに重役に迎え、この作品を地方新聞社に売り込み巡業公演を展開する算段だったようです。

 で、取り上げられた作品のテーマが「古事記」。

 クラウンで「古事記」!

 個人的な感想ということになりますが結論から言うとすべてが中途半端なわけのわからない作品になってしまっていたと思います。クラウンのやりそうなことをカタログ的に古事記のストーリーに当てはめただけの感じで、なによりもクラウンの本来の魅力が表現されていない。結局これ以後『神々の道化』が上演されることはなかったし、『東京国際クラウンフェスティバル』もこれ以後は開催されることはありませんでした。残念ながら、というか当然のことながら公演は成功したとは言えなかったのです。

 これを機に有能なスタッフが何人か株CCJを去り、この公演がいずれアメリカのクラウンカレッジとの契約が満了し、株CCJが解散してしまうことにつながるきっかけになってしまったのかもしれません。一方で92年に大道芸ワールドカップin静岡がスタートし、94年にクラウン派遣会社プレジャーBが名古屋で発足し今も続いているということを思うと、やはり残念ながら当時の株CCJの方向転換は失敗だったのかなと思わざるをえないのです。

 クラウンカレッジ卒業後の3期生はほとんど社員クラウンとして株CCJと専属契約し、ギャラは月給制でした。が、株CCJがまこっちゃんに個別に提示した契約は別のもので、映像やデザインのスタッフとしての勤務という内容でした。クラウンのイベント派遣だけでは先行きが危ぶまれると考えた株CCJはシアター・コンテンツのほかにも、映像やマーチャンダイジング、それに今のWEBコンテンツにつながるような多面的メディア連携コンテンツの展開などを考えていたようです。まこっちゃんはあくまでもパフォーマーとしてショーをしたいと考えていたのでこの話を断り、株CCJとは専属クラウンとしてではなく出演一本ごとにギャラが発生する、いわゆる登録契約クラウンという契約を結びました。ところが当時、まこっちゃんは3期生の仲間と「冗談秘密研究所」というユニットを組んでショーを企画していたのですが、社員クラウンであるほかのメンバーとギャラ事情やスケジュール的なタイミングも噛み合わなくなってしまったのです。そんなこともあり、かなり練習していたにもかかわらず「冗談秘密研究所」は日の目を見ないまま自然消滅してしまいました。 

 クラウンのユニットとして結成した「冗談秘密研究所」は日の目を見ないまま自然消滅しましたが、ましゅと一緒に「冗談秘密研究所」でできていたネタの幾つかプラス新ネタで「冗談秘密研究所」名義での最初で最期のパフォーマンスをしたのでした。それがまこっちゃんが過去唯一出演した野毛大道芸フェスティバル、1992年4月18~19日のことです。写真の、相方のましゅも後ろに出番待ちで控えてる三雲さん、秋葉さん、青空曲芸シアター(現・ダメじゃん小出)さんもクラウンカレッジ出身です。写真で見るとみんな若いですね。もしかしたらみんな20代かもしれません。

 ネタの内容とビジュアルの統合を図るため、まこっちゃんはいつものエキゾチック・ジャパン的な衣裳を封印し、かなりラフでシンプルな衣裳で出演しましたが、この衣裳を着用していたのは後にも先にもこの2日間だけです。当時アメリカのリングリング・サーカスに出演していた(まだ太る前の)ディビッド・ラリブルがこんな感じだったので、かなりラフな感じでもいけるのではないか、とまこっちゃんは考えたのです。それこそクラウンカレッジのクラウンたちの衣裳からしてみたらもうほとんど普通の服みたいな衣裳でしたが、わりと好評だったのが意外でした。

 この写真を撮ってくれたナナさん(現・ななな)も当日この衣裳に関していいと言ってくれて「いつもの(和風の)衣裳は何だかガードが固く感じる」という感想もくれたのでした。

 それを契機に、3期生の仲間と足並みが揃わなくなってきた事情の中でまこっちゃんは本衣裳を変える決心をしたのです。和風の衣裳はクラウンとしては異色なぶん目立つし、ビジュアルを有効に生かせればいいのですが、イメージが偏ってしまうし、だんだん外部のパフォーマー、マジシャンやマイマーの人たちと交流を持つようになってきたときに、このままソロでクラウンを続けるとしても、まこっちゃんの自分のやりたい方向とだんだん合わなくなってきていたのでした。 そこで衣裳を含めビジュアルを見直すことに決めたのです。

 ビジュアルを見直すと同時に、まこっちゃんは当時よくやっていたシガーボックスやデビルスティック、ローラーボーラーなどのいわゆるジャグリングものからも離れるようになり、クラウンがクラウンとしてやるようなクラウンらしいパフォーマンスってなんだろうという追求が始まりました。

 当時は、クラウンがドタバタと笑わせる中にジャグリングがビシッと決まると客ウケがとても良くて盛り上がったので、クラウンカレッジ出身のクラウンのショーはジャグリングが含まれるのが割とパターンになっていました。しかしジャグリングはクラウンの本質ではありませんので、よりクラウンとしてどういうパフォーマンスをするべきなのかを追求する際、まこっちゃんはジャグリングを封印することに決めたのでした。

 それらはデビューから1年もしないうちの大きなイメージチェンジでした。

 野毛大道芸から1ヶ月、まこっちゃんはデザインを考え、材料を買い、自分で縫製してとうとう新しい衣裳を作りました。周りからはスペインの情熱的画家風と言われたけれど、ラフながらも華やかな上昇色を多用したこの衣裳は、今までが和風だっただけに新鮮に受け止められたようでした。

 この頃は株CCJからの仕事で平日は後楽園遊園地(現・東京ドームシティ)、土日は渋谷のキッズファーム・パオで、どちらも主にM&Gだったけれど仕事は安定していました。

 キッズファーム・パオというのは“こどもの百貨店”をキャッチフレーズに、従来の貸主とテナントという契約関係ではなく、衣料、玩具、家電、外食、教育など広範な分野にわたって参画している各企業がそれぞれのノウハウを融合させ、ひとつの業態を開発する共同事業主となり、売場のオペレーションを共同で行うことを基本コンセプトに、西武百貨店と異業種企業約八〇社と共同で開発したという、当時では画期的な新業態店舗でした。まこっちゃんは株CCJが解散するまで、ほかにイベントなどの依頼が入った場合を除いてほぼ毎週のようにキッズファーム・パオに出演していました。

 92年後半に入っても相変わらずスケジュール面では同期生とは足並みがそろわず、外部のショーなどは1期&2期生の三雲さん、秋葉さん、森田さん、入岡さん(現・YEN TOWN FOOLsのクラウンびりさん)とよくやっていました。また、クラウン以外のパフォーマーとの交流も出来てきて、笑太夢のキラリンさん、みぎわ(現・みま)さん、芹沢ちか(現・チカパン)さん、南芳高(現・バルーンおやじ)さん、石黒サンペイさん、あがりえ弘虫さんとは外部からの紹介でイベントの現場が一緒になっただけでなく、現場で異種セッション的なステージを行ったりもしました。外部からの仕事はピンキリといった感じで、ステージもさまざまで、軽トラの荷台(揺れる!)とか、農具倉庫といったとんでもない場所もあったりしましたが、今となっては笑い話のひとつです。

 他にもまこっちゃんは自主的に福祉団体と合同で劇場公演をしたり、パブやキャバクラのショータイムに出演したりと、さまざまなことを試していた時期でもありました。どんなことでも、とにかく他の誰もやってないような演目をやろうと、研究し練習してはステージに上げていた頃でした。まこっちゃんの定番演目のひとつでもある手錠抜けなどはこの頃考え出したもの。道具そのものはイリュージョンマジックなどで、マジシャンが脱出する演目で使うもので、本来は閉じ込められた箱や袋、水槽の中など見えないところですぐに外せるようになっているものなのですが、それを見える状態で使っちゃうのはマジシャンにはない発想だったからかもしれません。

 市販のおもちゃのサックスでさまざまな曲を自在に演奏しちゃうなんて、当時日本では誰もやってませんでした。ロープ皿回しなどもこの頃からやっているネタです。

 試行錯誤の毎日だったけど仕事がそれなりにあったのは、バブル期に乱立した各イベント会社が生き残りをかけて必死にイベントを開催していたからで、バブル崩壊後でイベント会社は大変だったかもしれません。

 まこっちゃんは新しい衣裳に変えてプロモーションもやりやすくなりました。しかし、今後クラウンがどのように活動展開を図ったらいいのか、誰もが手探りで試行錯誤していました。

 92年夏、3期生たちと株CCJの契約が満了し、専属の社員クラウンだった3期生たちもまこっちゃんと同じ登録契約クラウンになりイベント業界に放流されました。そこに目をつけた新参イベント会社アート・ワールド(←支障があるので仮名)がクラウンカレッジ出身のクラウンの抱え込みを画策したのです。まこっちゃんと条件が同じになった3期生の何人かからは、一緒に組んでやろうよとアート・ワールドに誘われたりもしたのだけれど、クラウンカレッジの現場にもアート・ワールドのスタッフがやってきて勝手に楽屋に出入りしてはあれこれダメ出しなどして、あまりにも厚かまし過ぎる節度ない無礼な態度に良い印象がなく、というよりむしろ嫌悪感を覚えていたので、まこっちゃんはアート・ワールドとは関わらないことにしました。全員ではないものの、3期生の多数がアート・ワールドに登録したので、これでますます同期との距離感が広がってしまったのでした。

 そんなこともあり、いろいろ試行錯誤で行っていたステージにはもっぱら1期&2期のクラウンに協力を依頼していたのだけれど、そんな時期の成果として行われたのが92年11月21日の横浜あかいくつ劇場での公演でした。まこっちゃんプロデュース&構成&演出で1期のモリタさんとコゾーに一緒に出てもらいました。

 じつはこの、アート・ワールド騒動と、あかいくつ劇場公演成功のふたつの件がきっかけで、この直後思わぬ展開を見ることになるのです。

 それはサーカス出演の仕事でした。クラウンといえば真っ先に思いつくのがサーカス。クラウンはサーカスの花形です。しかし急に入った仕事でもあり、しかも初コンビの相手とネタなしのままサーカスのリングに立つことになるのです。そんな無茶な情況にサーカスでまこっちゃんが見せたパフォーマンスとはいったいどんなものだったのでしょうか?

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One thought on “2:第一転換期編

  1.  時代の風潮に惑わされずクラウンとして何をお客様に提供するかを問い続ける、そんな姿勢を今日まで崩さずにクラウンを続けてきたまこっちゃんのクラウン・ショーを、あなたのために出張公演いたしますので、ぜひご依頼ください。
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