誰も体験したことがない大震災。被災地とどう向き合うか? まこっちゃんが出した答えとは?

7:新生期神戸編(前)

 94年、まこっちゃんはかなりの頻度で神戸に行って仕事していました。この頃の神戸は元気で大きなイベントも多かったのです。ステージも歌手やバンド、歌のおにいさんやおねえさん、人気アニメなどのキャラクター着ぐるみショー、有名人や芸能人ゲスト、そして我らクラウンというライン・アップがだいたいのパターンでした。当時出会ったゲストのタレントさんで印象に残っているのが飯島愛さん、杉本彩さん……綺麗な女性だから、というわけではないけど。特に飯島愛さんの礼儀正しさは印象に残っています。現場のイベントスタッフさんにもいちいちちゃんと「ありがとうございます」と言っていました。今でも、毒舌キャラでもテレビに出ている時にクイズ番組などで得点を貰うと「ありがとうございます」と言っていたのは飯島愛さんぐらいしか思いつきません。だからといって、テレビ等で見かける姿とかけ離れているというわけでもなく、本当にごくごく自然に振舞っていました。

 神戸はとにかく華やかな頃でした。

 そんな年明け、95年、衝撃的な出来事が起こります。

 それが、1月17日の阪神淡路大震災です。

 前年から頻繁に神戸に訪れていたまこっちゃんは、連日報道されるニュースの映像にはとても心穏やかではいられない日々を過ごしたものです。とはいえ、自分に出来ることも限られているので、無駄に支援活動とかボランティア活動に参加して足を引っ張ることも躊躇われ、横浜から現地の人たちの安否を気にしている感じでした。幸いにも知り合いの人に命の別状がないことが確認されほっとはしたものの、やはり現地の情況に心塞ぐ日々は続いたものです。

 震災から二ヶ月が過ぎた頃、ずっとお世話になっていた神戸のイベント会社さんからまこっちゃんのもとにショーの依頼が来ました! 日本各地から復興イベントをしにさまざまな団体が神戸に行っていましたが、地元発信のイベントをしたいのでぜひ神戸に来て欲しいということでした。これには断る理由が何もない。ギャラも出るということでした。

 聞くところによると、このイベント会社の社長さんがクラウンを推薦してくださったのだけれど、「有名人が避難所をまわってボランティアでショーやコンサートをしてくれてるのに何でわざわざお金払って関東から人を呼ばなあかんねん」という主催者を強く説得して決めた話だそうです。もちろんまこっちゃんはギャラは受け取らないつもりでいました。

 そして3月25日、まこっちゃんたちはまず新幹線で新大阪まで行き、そこから住吉止まりの在来線に乗り換えました。乗り換えた在来線には大きな荷物の乗客ばかり。まこっちゃんたちも普段から手持ち移動の時はかなり大きな荷物です。しかし乗客たちが持っていたのは救援物資や食料ですが、クラウンたちの荷物は小道具や衣裳や自分たちのものばかり。それだけでも心が痛んだものです。淀川を渡ったあたりから景色が急変し、ブルーシートが目立つようになりました。高級住宅地のイメージが強い芦屋の駅前も、バスロータリーがテント村になっていました。住吉からはひたすら歩いていったん東灘にあるイベント会社の事務所に寄りました。このイベント会社の社長さんが今回まこっちゃんたちのショーの推薦をしてくださったのです。 神戸入りした日はオウム真理教上九一色村教団施設の強制捜査があり、被災地神戸のテレビでその生中継を見ていました。自分のいる場所と、テレビで映し出される光景が、あまりにもかけ離れていて非日常で現実感がない気がしました。 

 まこっちゃんたちとイベントスタッフは事務所で合流したのち、そこからまたさらにひたすら歩いて歩いてなんとか宿舎のある新開地までたどり着きました。新開地まで西を目指してひたすら何時間も歩きましたが、道路の真ん中に家の二階部分が落ちていたり、斜めに歪んだ家屋をつっかえ棒で支えていたり、あとは黒焦げの瓦礫の山。三宮のビル街もビルがひとつひとつ違う角度で傾いていました。そんな中にあって驚いたのは、用意してくれた宿舎の部屋が電気も使えて蛇口からお湯も出ること。被災地の真ん中で驚くばかりのVIP待遇にまこっちゃんたちは複雑な心境で夜を迎えたものです。こんな場所でどんなショーができるというのだろう? とはいえ、もう来てしまったのだ。今までやってきたことしかできないのだから、それを精一杯やるしかない。とにかく重たい荷物を持ってひたすら歩いた疲れを取るべく、まこっちゃんたちは翌日に備えて眠ることにしました。

 翌朝、新開地から東須磨を目指します。

 向かうは板宿商店街。一面焼け野原と化したあの長田地区の真っ只中で唯一アーケードが焼け残った商店街です。

 そこはさしずめ砂漠の中のオアシスの町のような場所になっていて、周辺のあらゆる人々が集まって来ていました。人の密度は原宿とか渋谷のようです。

 ショータイムは2回でしたがどちらもものすごい数のお客様が集まってくださいました。楽屋になっていた商店会事務所ビルの前は宝塚スターさながらの出待ちの人々がたまっていたし、まこっちゃんたちがステージと楽屋を移動するあいだにあちらこちら引っ張られ、『ビートルズがやってきた、ヤア!ヤア!ヤア!』状態で、衣裳も破れてしまうほどだったのです。

 呼んでくださったイベント会社の社長さんも、そして当初は反対していた主催者の方も大変に喜んでくださいました。

 そしてショーがすべて終わって、片付けが済んだ頃合いでそのイベント会社の社長さんがクラウンたちにギャラを手渡しながらこう言ったのです。「ほんまはこんな大変な場所まで来てもろうたんやから多めにお渡しせなあかんのやけれど、以前と同じ金額ですみません。震災前は普通にギャラをお支払いしてショーをしてもろうてた、だから今日もちゃんとギャラを受け取ってもらいます。地元発信の初めてのイベントだから、ギャラをお支払いするということも私たちにとっては大事な復興の一歩なんですわ」そう言われてはまこっちゃんも受け取らざるを得ません。そして社長はこう付け加えました。

「受け取っていただいた上で、募金なり赤十字なりに寄付するのは自由にやっていただいて構

わへんけど、家まではちゃんと持って帰ってください」と。

 封筒の中身はピン札でした。

 ふたたび新大阪まで戻って乗った新幹線の終電で横浜に戻る時、まこっちゃんはひたすら考えていました。

 クラウンはクラウンなのだ。

 被災地の人たちがお金を払ってでも見たい。自分は何かとてつもなく大事な仕事をしているのではないか。

 そしてまこっちゃんは決心しました。

 今日もらったこのギャラは、どこにも寄付したりせず、自分のために使おうと。

 いつまでも被災地や戦地に呼んでもらえるよう、自分の糧にしようと。

 例えばそれが「飲む・打つ・買う」でもいいのだ、ちゃんと自分の糧になるものであれば。

 このギャラは自分のために使う。……まぁ、実際には飲んだり打ったり買ったりすることには使わなかったけれど。

 クラウンをやる!

 クラウンをやり続ける!

 どんなに苦しくてもクラウンを辞めない!

 被災地のギャラを自分のことに使うと決めた時のまこっちゃんの決心でした。

 まこっちゃんがクラウンとして生まれ変わった日でした。

 そしてこの日から17年後、神戸の同じこの場所で信じられない奇跡が起こります。

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One thought on “7:新生期神戸編(前)

  1.  被災地からショーの依頼を戴き、そこでクラウンとして生まれ変わったまこっちゃん。そんなクラウンのショーを、あなたのために出張公演いたしますので、ぜひご依頼ください。
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