クラウンたちが育てた次世代クラウンがライバルに⁉︎ まこっちゃんが直面した大きな変動とは?
6:変動期編
クラウンとしてデビューしてから3年。試行錯誤の果てに、94年に入ってやっとパフォーマンス内容とキャラクターやビジュアルが一致してきて、まこっちゃんのクラウンとしてのスタイルが確立されました。この頃に考え出されたネタは今でもやっているものが多くあります。
前年には神戸でビッグイベントのシーズンがあり、それで知り合ったイベンターさんに気に入っていただいたこともあり、94年はよく神戸で仕事をしていました。また、株マリンメディアの本部が兵庫にあったこともあり、株マリンメディアの仕事で神戸に行くことも多かったので、ほぼ毎月神戸に行っているような感じで、まこっちゃんにとって神戸はすっかりおなじみの場所になっていました。
神戸ではさまざまなイベントに出演しましたが、神戸港花火大会イベントでゼンジー北京さんとご一緒したことや、音楽フェスティバルでは通常では日本人が入れない「外国人倶楽部」という施設のダンスフロアでショーをしたりしました。
また、当時は都市近郊や郊外に大型ショッピングセンターができ始めていた時代でもあり、まこっちゃんも巨大ショッピンセンターのオープニングイベントで全国各地飛び回っていました。まこっちゃんのクラウンのスタイルが確立されたこともあり、だんだん一緒にショーをするのが同じメンバーにレギュラー化されてきた時期でもありました。
まだまだ各地で開催される博覧会も多く、大きなイベントもありましたが、この頃になるとクラウンの存在の認知度がやや上がり、ブライダル業界や音楽業界からの依頼など、それまでになかった業界からの依頼が来るようにもなりました。また、パチンコ店のキャンペーンでクラウン・ショーを行うために飛行機日帰りで大阪まで往復したという、規模が大きいのか小さいのかよくわからないような仕事もありました。
クリスマスには引き続き、クラウンが病院でパフォーマンスをするという当時の日本ではとても革新的な仕事もしているのですが、さらに杏林大学病院のほかにも、伊豆の介護施設・安寧の郷で毎年クラウン・ショーを行うようになりました。
そしてこの年のクリスマス、まこっちゃんにとってはもうひとつ忘れられない出来事がありました。
キーボーディストの山石敬之さん(現・ライブハウス「池袋FIELD」オーナー)率いるバンド、Tableau Vivantのライブのサプライズ・アトラクションでパフォーマンスをしたのです。山石敬之さんといえば当時はTHE ALFEEのツアーでキーボードを弾いていた方です。ライブの途中、ハーフタイム・アトラクションのような感じでクラウンのショータイムが行われました。その時はバンドメンバーがステージから降りて客席の最前列で見るという状況で、もちろん山石敬之さんも見てくださいました。長年THE ALFEEのファンでもあるまこっちゃんは本当に楽しそうでした。
打ち上げでは「少なくてごめんね」と言って山石敬之さん自らギャラを手渡してくださったのですが、あぁ、この手があの『恋人達のペイヴメント』や『A Last Song』のイントロを弾いている手なんだ、と、まこっちゃんはしみじみ思ったそうです。しっかり握手もしてもらいました。
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一方、ボランティアやチャリティで福祉関係のイベントや施設でのショーも積極的に請け負っていて、そのステージで新しいアイデアを次々と形にしていたのもこの頃のことです。
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さて、その年の4月から株マリンメディアはバナナサーカスというのを立ち上げて、株式会社クラウンカレッジ・ジャパンから引き継ぐクラウン養成事業として、バナナサーカス・クラウンスクールというのを始めていました。講師陣は入岡雅人さん(現・YEN TOWN FOOLsのクラウン・びり)、秋葉知夫さん(クラウンTOM)、三雲いおりさん、GOさん(現・ダンディGO)という、かつてまこっちゃんが同期生と足並みが揃わなくなっていた時代によく一緒に仕事をしていたクラウンカレッジ・ジャパン(以下CCJ)の先輩たちです。バナナサーカス・クラウンスクールは3年制で97年に卒業公演が行われています。出身者にはKOTA、MICCHA(三茶)、ちはるんるん、チコ、エノサン、現在はマジシャンとして活躍しているジージョ星などがいます。CCJのクラウンが養成した、いわゆる次世代のクラウンということになります。
CCJ世代が次世代クラウンを養成したというと快挙のようですが、皮肉なことに、株マリンメディアはバナナサーカス・クラウンに積極的に仕事を割り振るようになり、CCJ世代のクラウンの仕事が減らされるという事態を招くことになってしまいました。そのため、CCJ世代のクラウンのマリンメディア離れが起こりました。元CCJのクラウンたちはフリーになり、それがその後それぞれイベントごとに出演を請け負う仕事スタイルに定着してゆくことになるのです。
また一方で、株マリンメディアの本部がある兵庫では三宮の神戸新聞カルチャーセンターで、また名古屋の中日新聞カルチャーセンターでそれぞれ一般向けの短期のクラウン講座が行われ、現・G.E.Japanの白井さんや3期生の中からも講師として出張している仲間がいました。その受講生の中でも名古屋のカルチャーセンターに通っていたKという名鉄の駅員さんが履修後に脱サラして自ら地元名古屋にクラウン派遣会社を設立、これが今では日本随一のクラウン派遣会社に成長してビジネス的に大成功を収めているのですが、それを見るにつけ、CCJがかつて手放した物の大きさを思わずにはいられません。CCJのクラウンたちはクラウンに対する思いが純粋で、大胆なビジネスに踏み切ることができなかったような気がするし、マリンメディアはクラウン部門をコンテンツ事業として利用するだけだったので、かえすがえすとても残念です。そして今ではすでに元祖も本家も存在しないというのは寂しい限りです。
この頃からまこっちゃんは「新人とはいえ同じ仕事を取り合うライバルを増やすだけだから、自分は指導育成はしない」と宣言をしていました。
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そのように、クラウンたちにとっての大きな変動期ではありましたが、翌年、それどころではない、もっととてつもなく大きな未曾有の出来事が日本を襲いました。
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