初コンビでまだ持ちネタがないのに派遣されたサーカス。リングの上でまこっちゃんが見せたパフォーマンスとは?
3:研鑽期(1)サーカス編
クラウンといえば真っ先に思いつくのがサーカスですよね。クラウンはサーカスの花形です。
もちろんまこっちゃんもサーカスに出演していたことがあります。それは残念ながらリングリング・サーカスではありませんでしたが。
当時日本にはまだキグレ大サーカス、木下大サーカス、矢野サーカス、国際サーカス、カキヌマ大サーカスの5団体が活動して、日本各地で興行していました。その中で現在も活動を続けているのは木下大サーカスだけで、現在ほかには元・関根サーカスメンバーが結成したザ・ゴースターズが立ち上げたザ・ポップサーカス、西日本エリアで興行しているハッピードリーム・サーカスとワールドドリーム・サーカスの姉妹団体、人間業がメインの瀬戸内サーカスファクトリーの合わせて4団体が国内で活動しています。
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92年、株式会社クラウンカレッジ・ジャパン(以下、株CCJ)は国内のとあるサーカス団体にクラウン派遣を行っていましたが、3期生が登録契約クラウンになったことで急激な人材不足になってしまいました。外部での仕事を始めた3期生が、サーカスのような長期日程が拘束される仕事を敬遠したのです。サーカスに行くのは2人ひと組。よって、もともとコンビか、もしくは3期生のようなずっと一緒にショーをやっているメンバーのように、すでにコンビネタを持っているチームでないと難しく、1期や2期生のソロ・パフォーマンスをしているクラウンにも発注しにくいという事情がありました。特に新年早々の公演に関しては、新たなコンビを導入するためには年末に稽古をしなくてはならないのですが、クリスマスシーズンの繁忙期ということもありそれもままならず、サーカスの新春公演に投入できるクラウン・チームがいないという事態に陥っていました。そのため、株CCJからの要請で急遽まこっちゃんとモリタさんがサーカスに年末から1ヶ月入ることになったのです。
どうやら株CCJはあかいくつ劇場の公演の件でまこっちゃんとモリタさんでコンビのショータイムが打てると判断したようでした。しかし実はそれは間違いで、あかいくつ劇場はいわゆる90分のストーリー仕立てで作られたショーなので、モリタさんとまこっちゃんですぐにできるコンビネタはなかったのです。それでもサーカスに出るということはクラウンにとって必要な経験です。サーカス団に入団しない限り特に日本のクラウンたちはサーカスに出演する機会がほとんどありません。そこでモリタさん共々まこっちゃんはこのサーカス出演の仕事を受けることにしたのです。
それはいいとして、もともとまこっちゃんとモリタさんはコンビではないしコンビネタもありません。急に決まったサーカス行きでもあり、それぞれクリスマスシーズンの仕事をこなしていたのでネタ作りやリハーサルの日程もほとんどない。クラウンカレッジ・ジャパンにある道具類はどれでも好きなものを持っていっていいと言われたので、取り敢えず面白そうなのを見繕って、クリスマスシーズンの終わった12月26日サーカスに入りました。
公演地は鹿児島県川内市でのお正月公演。
演目の設定は医者と患者。
道具の使い方と使う順序だけ決めて、とにかく演技は即興です。なにせネタも何も出来上がっていないのですから無謀なチャレンジとしか言いようがありません。10分間の持ち時間がきちんとまとまるかどうか——という、とんでもない状態のまま。そんなものだから年末に開かれた興行主、スポンサー、地元関係者向けのプレビュー・ショーで行ったパフォーマンスは何もまとまりというものがない散々な、というより惨憺たる出来でした。
しかし、そのプレビューで初めてサーカスのリングに立った感覚をつかむことができたので、このプレビューで行なった即興を練り直して、年明け93年の元旦開幕までにどうにか形にすることができました。
当時日本の各サーカス団にいたクラウン(いわゆるサーカスのピエロ)は大抵サーカス技のパロディをしたりわざと失敗したり、たまに凄技を披露したりという型にはまったパターンがほとんどだったので、まこっちゃんとモリタさんはアメリカのサーカス・クラウンのようなギャグ・ルーティンでショーをすることにしたのです。使う道具はもう持ってきたものだけしか使えないので設定はそのまま医者と患者という役で、次々とはちゃめちゃなことが展開してゆくギャグ満載のショーに仕上がり、日本のサーカスではなかなか見ることができなかった本場仕込みのクラウンショーはどうにか好評を博しました。続けるうちにクラウンショーを見たいからと言って何度もサーカスに来てくださるお客さんもちらほらいらっしゃいました。
医者と患者というわかりやすくてはっきりした役割が決まっていたので、モリタさんとまこっちゃんはその後時々役を入れ替えたりしていました。演技は即興なので、例えば医者のまこっちゃんが患者のモリタさんをこちら向きにしょうとしても、モリタさんは段取りだけではこっちに向いてくれません。こちらもこっち向きになってもらうように本気で工夫をしなければ前に進みません。すべての回が毎回真剣勝負でしたが、おかげで毎回ショーの鮮度を保つこともできました。
今にして思うと、そんなデンジャラスなショーをよくやっていたものだと人ごとのように感心してしまいますが、最初から出来上がったショーを持って行ってやっていたとしたら、きっと面白いショーはできなかったと思います。毎回真剣勝負だったからこそ、リングの中心にいて、本当にお客様と一体になって盛り上がっていたという感触、実感を感じることができたのでしょう。
この10分ショーを1日3回、1ヶ月毎日こなしたことは、まこっちゃんにとってとても大きな経験になりました。
さて、サーカスといえば独特な世界でもありますが、それはショーだけでなく生活空間も含まれます。サーカスの大テントはJR川内駅横の広大な空き地にありました。大テントの裏側がコンテナハウス村になっていて、次の公演地に前乗りしている営業部の一部の社員以外の全員が公演中はここで暮らしていました。メイン通りの大テントに近い側に動物のコンテナ、事務所のコンテナと食堂のコンテナ、浴室&洗濯場があり、あとは出演者めいめいのコンテナハウスが間隔を開けながら並んでいました。囲いの外側は日本だけれど囲いの内側はまるで無国籍。フィリピン、マレーシア、タイ、ベトナムから来日しているサーカスアクターたちと一緒にまこっちゃんもコンテナハウスで暮らしたのだけれど、環境に日本語の比率が少ないので1ヶ月も暮らしていたらまこっちゃんも簡単な日常会話がフィリピン語で出来るようになってしまっていました。
サーカス生活一ヶ月の間にも色々なことがありました。暴風雨の日は大テントが吹き飛ぶんじゃないかというぐらいで、そんな荒天の時は当然サーカスは休演になるのですが、バックヤードでは食堂に行くにも風呂に行くにもびしょ濡れ、地面も土で水たまりも多くてかなり大変でした。
クラウンのリハーサルを大テントのリングですることもありましたが、飛行もの(空中ブランコなど)のマストに上がったことがありました。下にはちゃんとネットが張ってある状態でしたが、上から見るとネットが狭く見えて、ちょっと逸れたら地面に激突するような感じがしました。じっさいネットは広く張ってあるのでちょっと逸れたぐらいでも地面に激突することはないのですが、そう見えるぐらい高いので怖かったです。
このサーカスには象さんもいました。まこっちゃんは象さんと仲良しになりたかったのですが、いつも近付くと鼻で砂をかけられていました。そんな象さんがある日、トレーナーさんの調教棒が折れた時に大暴れしたことがありましたが、トレーナーさんが大急ぎでスペアの調教棒を持ってきたらたちまちおとなしくなりました。調教棒って水戸黄門の印籠みたいな威力があるようです。
まこっちゃんは象さんとは仲良しにはなれませんでしたが、ドッグショーに出ている犬の中で特に「カミツキ」と呼んでいた、トレーナーさん以外には絶対懐かない犬とあっさり仲良しになりました。トレーナーさんがびっくりしていて、サーカスで生まれた子犬をまこっちゃんにくれるとまで言ってくれました。でも、せっかくのお申し出でしたがまこっちゃんは飼育に自信がなかったので辞退しました。サーカスで生まれた犬は骨盤が強くて芸を仕込みやすいのだそうです。「カミツキ」がいつも尻尾を振って嬉しそうにまこっちゃんに寄ってきてくれるのを見て調子に乗ってモリタさんも手を出したら噛まれてしまいました。
出演者の中にもすごい人がいました。ボウガンの的撃ち芸をするエリックは元オリンピック選手、腕前は確かです。彼が使う弓には番号が振ってありました。弓は使っているうちに歪んできて飛行に癖がついてしまい、1本1本微妙にコースが違うのだそうです。その一本一本のズレに合わせて飛ぶコースを読んで的を狙うのですが、いちいち確認しなくてもいいように撃つ順番を決めているということでした。そしてある日、夜公演の時、まさに彼がリングで的撃ちをしている真っ最中にまさかの停電が! マジ停電です。そして割れる風船の音! ちゃんと的に命中していました。停電はすぐに復旧しましたが、助手役で頭の上に風船を乗せていたクリスティ曰く「エリックは上手だから動かない方がいちばん安全」とのこと。エリックもクリスティも凄すぎです!
こんなこともありました。九州南西部に位置する川内市ではかなり珍しくある日雪が降りました。当時川内市で降ったのは4年ぶりぐらい、積もったのは10何年振りぐらいだったそうです。でも首都圏と比べても積もったといえるほどではなく薄化粧程度でした。ところが、まこっちゃんは朝からたたき起こされました。何事かと思えば、マレーシアやフィリピンから来日していたメンバーには雪そのものが珍しかったようで、出演者全員で記念写真が撮りたいから起きて来い、ということでした。で、写真を撮った場所が資材置き場。もっと景色のいい場所で撮ればいいものを、と思ったら、ここが一番積もった雪がよく見えてるという理由でした。
さて、クラウンショーも好評だったということで、川内公演が終わって横浜に帰る時、団長さんから別れの杯を頂戴しました。そして団長さんが「金箔入りだから」と言ってそのまま一升瓶の金箔入り松竹梅をまこっちゃんにくれました。ところがこれが空港でひっかかり、「お預かりできませんので手荷物として機内にお持ち込み下さい」と言われてしまいました。確かにね、飲みかけ状態になってる瓶ですもんね。もうすでにどうにもなりません。一升瓶の酒をむき出しのまま抱えて飛行機に乗ったまこっちゃんでした。
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さて、そんな感じで一ヶ月間のサーカス出演を無事に終え横浜に帰ったまこっちゃんですが、しばらくしないうちにまた新たな出来事が! それはクラウンカレッジ・ジャパンの消滅という大事件でした。
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One thought on “3:研鑽期(1)サーカス編”
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ネタがなくても、ネタに頼らなくても、クラウンの本質を見失わなければちゃんとクラウンのショーができることを、まこっちゃんはこのサーカス出演経験で深く理解したのでした。そんなクラウンのショーを、あなたのために出張公演いたしますので、ぜひご依頼ください。
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