ついにクラウンカレッジ・ジャパンが日本から消えた⁉︎ そんな時代にまこっちゃんは……?

4:研鑽期(2)テーマパーク編

 1993年、日本経済がバブル崩壊の末期に突入し、株式会社クラウンカレッジ・ジャパン(以下、株CCJ)のスポンサー企業だった食品会社が出資を引き上げ、京浜急行から見えていた大きな看板がそびえるクラウンカレッジ・ジャパンのキャンパスは閉鎖し、株CCJの事務所は蒲田に移転しました。第一京浜沿いにあったクラウンカレッジ・ジャパンのキャンパスは更地になり、跡地は現在国道15号からしながわ水族館につながるプロムナードとしながわ水族館の一部になっています。

 蒲田に事務所を移転した株CCJでは、3期生をはじめとした所属クラウンの外部流出により大きなイベント企画が減少していました。クラウンカレッジ出身者としてあまりにも切ない現状だったので、まこっちゃんは株CCJの仕事はわりと積極的に受けるようにしていて、クラウンの人材不足もありショー要員に加わることも多くなっていました。

 93年の前半は年明けサーカス1ヶ月公演を含めとにかく日本全国飛び回っていた感じでした。その年のまこっちゃんのGWのスケジュールは、5/1(土)PJ93春の祭典(東京)、2日(日)東松山こどもまつり(埼玉)、3日(憲法記念日)横浜国際仮装パレード(神奈川)、4日(国民の休日)福知山・城まつり(京都)、5日(こどもの日)ホテル新潟5周年(新潟)といった具合で、特に後半の横浜→福知山→新潟は移動距離が激しいスケジュールでした。3日のパレードでの長時間で休憩なしで歩きっぱなしが終わるとシウマイ弁当をもらって新横浜へ直行、新幹線に乗り、京都駅から山陰本線でさらに2時間、福知山に到着して同行したみんなで真っ暗な深夜の街の中で食事ができる店を探してさまよったりしました。翌日、福知山から新潟へは直接行けばそう遠くないのだけれど、別チームと合流する必要からステージが終わるといったん東京に戻ってから新潟へ。とにかく大荷物を持って乗車率150パーセントだの200パーセントだのという特急に乗るのは大変なんてものじゃありませんでした。弁当も買えないトイレにも行けない電車地獄!
 その翌週の土日には千葉での食イベントなど、まさに引っ張り凧状態だったのです。

 まだ当時はバブル期の遺産として大規模事業の完成も相次いでいたので、それに関連するイベントも数多くありました。6月5&6日には華々しく竣工した梅田スカイビルのオープニングイベントがあり、結成一年めの水玉れっぷう隊など吉本の新人お笑いタレントたちと共に出演したり、まだバブルの熱冷めやらずといった空気が残っていたのです。
 東京の幕張メッセなどでも大規模なイベントはまだ行われていました。

 当時のまこっちゃんはそんな感じで仕事をこなしていましたが、その代わり、クラウンの多くが外部に流れてしまったこの時期にまだ株CCJに残っていたメンバーとはこうして一緒に仕事をするようになったことで、かつて3期生に感じていたような距離感は解消されてきていました。

 その頃、横浜に海岸を作るという横浜市による「海の公園」事業で金沢区野島沖に人工島を造成する工事が1980年から始まり、13年後に横浜市と西武グループで運用を開始したのが横浜八景島。そして1993年5月8日にテーマパーク「八景島シーパラダイス」がオープンしました。

 じつは92年の年末、アトラクション部門で株CCJが関わっていて、それまでに行っていた後楽園遊園地(現・東京ドームシティ)へのクラウン派遣(「2:第一転換期編」参照)以上に深く関わっていたのです。出演するクラウンは株CCJ選抜によるレギュラーメンバー6名で、93年の年頭からショーのリハーサルが開始され、春先頃には現地で準備&リハーサルが繰り返されていました。

 そんなさなか、6月、アメリカのリングリングサーカス(Ringling Bros.and Barnum&Bailey Circus)と株CCJの契約が更新されず、クラウンカレッジ・ジャパンはフェイドアウトするように時代の表舞台から退場しました。のちに業界で「バブル時代の最後に咲いた徒花が散った」と言われる出来事でした。

 それにより、八景島シーパラダイスの案件は株CCJからクラウン部門を譲渡された株式会社マリンメディアに引き継がれました。マリンメディアというのは、91年に公開された当時大人気のホイチョイ・プロダクションが製作した中山美穂&織田裕二主演映画『波の数だけ抱きしめて』のモデルになった湘南のコミュニティFM局、「FMバナナ」を設立した兵庫県のイベント会社。FM事業が拡大し10年過ぎて新しい事業展開に選んだのが株CCJから引き継いだクラン事業だったのです。

 選ばれたメンバーの中には、たっこ、東京MAD、シンちゃん、現・クラウンパラダイスのトッタとダイアナなどがいて、3人ずつのシフトで交代しながら出演していました。

 シーパラでのクラウンの出番は多く、園内のパレード、レディースポリスとのアトラクション・ショー、アクアスタジアムでのM&G、アクアスタジアムでの海獣ショーのオープニング&ショータイム&フィナーレ、その他季節イベントでのパフォーマンスなど、多岐に渡っていました。

 八景島シーパラダイスのオープンから3ヶ月たったある日、シーパラ出演者のひとりが骨折し、ピンチヒッターでまこっちゃんがメンバー入りすることになりました。緊急事態ということもあり、連絡を受けた翌日すぐにまず見学ということでスタッフと一緒に八景島入り。もうその翌日にはショーに出なくてはならないので、まこっちゃんは客席からダンスを見て必死に振付を覚えました。この振付というのがザ・ピーナツやピンクレディやスクールメイツや『笑っていいとも』のダンスを手がけた伝説の振付家・土居甫大先生によるもので、難しい動きはあまりないものの、リズムの拍子をずらすというワザが入っていて慣れないとややこしいダンスでした。

 翌日の本番出演第1回目のアクアスタジアムのショーのオープニングダンスは散々なもので、しかもまこっちゃんは他の人の動線を遮ってしまうという失敗をし、レディースポリスからひどく怒られるという失態をし、次の出番まで仲間たちが丁寧にレクチャーしてくれて必死に特訓し、初日2回目でどうにか形になったという瀬戸際の八景島デビューでした。

 さらにアクアスタジアムでのショーはトドと共演するギャグコーナーもあり、まこっちゃんは動物と息を合わせる難しさも体験しました。動物は敏感なので、慣れてない相手に対しては言うことを聞いてくれないのです。急に加入した新顔のまこっちゃんには動物とのコミュニケーションのハードルを下げるという課題もあったのです。一方で慣れすぎてはいけない動物もいました。サーカスでは象さんだったけど、シーパラにはイルカがいます。バックステージのプールの横を通るときなど、イルカが遊んで欲しくてプールサイドに寄ってきて顔を出してくるのです。でも原則トレーナーさん以外の人がショーの動物たちと関わってはいけないことになっているので素通りすると、すねて水をかけてくるので困ったりしたこともありました。

 八景島シーパラダイスでは1日のうちにパレード1回、アクアスタジアムのショーが6回、レディースポリスとの野外パフォーマンスが2回、かなりやることが多くて忙しい現場でもありました。しかしまこっちゃんにとっては仲間とかチームワークというのを強く意識した現場でもありました。

 さて、シーパラでの衣裳はイルカやアシカやトドと共演することもあり余計な装飾がないこと、そしてプールや水槽周りに入るときは常に消毒するので構造がシンプルなこと、マリンリゾートなトータルコンセプトに合わせること、などが条件だったので、まこっちゃんは2代目衣裳よりもさらにラフな感じになっています。

 八景島はその名の通り島なので、台風が来ると橋が渡れなくなって島が封鎖されてしまうことがありました。島が封鎖されると当然その日は帰宅できなくなってしまいます。そんな大変なこともありましたが、楽しいこともたくさんありました。夜のショーまでの間に1時間の休憩があります。その時間帯はだいたいクラウンたちは楽屋で食後に仮眠をとっていることが多いのですが、まこっちゃんと東京MADはよく園内に出てってゲリラ的なパフォーマンスをしていました。それがとても楽しく、しかも勉強にもなりました。

 アクアスタジアムでは動物たちのショーなのでアクシデントもありました。そんなときはクラウンが出てって、即興でパフォーマンスをしたものだけれど、2,000人の観衆の前で行う即興パフォーマンスという状況なかなかないことです。

 この年のサーカスと八景島での経験は、今に続くまこっちゃんのパフォーマンスの資質を固めてくれた良い勉強の時期だったと言えるでしょう。

 そしてこの年、まこっちゃんにさらにクラウンの新たな道を切り拓く機会が訪れます。それは前例のない日本で初めての、クラウンによる病院訪問でした。

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One thought on “4:研鑽期(2)テーマパーク編

  1.  どんなに情況が悪くても、どんなに条件が悪くても、クラウンとして人前に出てパフォーマンスし続けることをひたすら選んできたまこっちゃん。そんなクラウンのショーを、あなたのために出張公演いたしますので、ぜひご依頼ください。
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